スクウェア21 vol.312 佐々木則夫 元サッカー女子日本代表監督

スクウェア21 vol.312 佐々木則夫 元サッカー女子日本代表監督

なでしこの「負」の心を解放したことが結果的に世界の女子サッカーを変革した

巻頭Interview 佐々木則夫 元サッカー女子日本代表監督

転校の小学時代ケガの中学時代

谷口:山形のお生まれと伺っております。小さい頃はどんなお子さんでしたか?
佐々木:僕はひとりっこで、おばあちゃん子で、甘えん坊でした。意外と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、おとなしい子でした。

谷口:小学校の頃からスポーツはやられてましたか。
佐々木:あまりおしゃべりではなかったのですが、動くのは好きで、山形の野原を駆け回っていました。小学校一年の頃から足は速くて、運動会では一等賞でした。その後、小学校だけで三回も転校したので、いじめも経験しました。方言も克服し、内向的にもならず、だんだんコミュニケーション能力が上がってきたのは、逆に転校の経験があったからこそだと思います。当時は私も野球が好きでしたが、ある小学校で、見たことのないボールの蹴り合いのゲームが、サッカーとの出会いでした。

谷口:サッカーは今ほどメジャーではありませんでしたよね。
佐々木:はい、サッカーをやっていた学校もあまりなかったと思います。山形の尾花沢、東京の板橋の小学校を経て、埼玉の蕨東小学校でサッカーに出会い、「サッカーをやりたい!」と思ってチームに入ったら、また転校になってしまい、川口へ行くことになりました。ところが川口にはサッカー・チームがなかったので、自分で仲間を集めてチームを作りました。小学校6年生でしたが、そこはゴールもなく、僕が「サッカーとはこういうものだ」とリフティングするとみんな驚きました。昔ですから、リフティングを50回くらいやってみせるとみんな本当に驚いてました。

谷口:そりゃそうでしょうね(笑)。
佐々木:曲芸みたいに思われました(笑)。それで「俺もやりたい」という友人が少しずつ集まりました。結局8人くらいにしかならなかったんですけど、それから中学に上がって、みんなでサッカー部へ入りました。

谷口:いよいよ本格的に始めたのですね。
佐々木:ところがですね、中学に入ったらケガばかりだったのです。実家の山形へ帰ったときにスキーで足首を骨折して一年間サッカーができず、やっとできると思ったら試合で鎖骨を折り、治ったと思ったら今度は運動会で応援団長をやっているときにイスから落ちて肩を折って(笑)。もし中学時にしっかりできていれば、普通の公立高校でサッカーを楽しんでいたと思うのですが、やりたくてもできなかったので、とことんサッカーをできる高校に行こうと思って帝京高校を選びました。

谷口:なるほど、名門ですからね。
佐々木:とはいえ、やはり厳しかったですね。部員も一年生だけで百人くらいいました。僕が一年のときに三年生が全国大会で初優勝して、僕も22〜23人のメンバーには入っていたのですが、試合には出してもらえず、実際は三年生の小間使いでした(笑)。応援部隊は別の宿に泊まって大阪を満喫しているのに、僕らは22〜23人の中の試合に出られない一年生ですから、「ああせいこうせい」で大変でしたけど、それがまた良い勉強にもなりました。結局、私も三年生でインターハイ優勝などを経験させてもらいましたし。

谷口:大学は明治でしたね。

佐々木:ええ。大学時代はけっこういいメンバーがいたのですが、コントロールする人がいなくて、まあ我の強い人が多かっ
たので(笑)、なかなか一致団結して良い成績が残せず、一部と二部を行ったり来たりしてました。

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